二〇周年記念講演会【2:(1)周りの自然、文化、人に向かって取り組むということ】

2.誰でも日々発達に向かって取り組んでいる
(1)周りの自然、文化、人に向かって取り組むということ

 

 やっぱりただ見ているだけだとだめなんですね。働きかけをしながら、その子がどう、この働きかけとの対応関係がどこまであるかははっきりしないこともしばしばあるけれども、働きかける中で動きが出てくる。それを捉えて、この取り組みはどういうものであるか、というようなことを考えるということを、私も随分現場に入って行ってまいりました。そういう目で見てみると、どの子たちも間違いなく、それぞれの仕方で周りの世界と取り組んでいる。周りのものと取り組み、周りの人間たちと取り組みしているというようなことを再確認していきます。

 どの子にもあてはまるのかどうか、ちょっとわかりませんけれども一例をあげます。ある養護学校、かつての言い方で養護学校へ参りましたときに、これは肢体不自由児の重度・重症児のクラスでしたが、担任たちが複数担任でやっておられて、部屋を少し暗くして、クラシック音楽をかけると、この子たちは聞き耳を立てるのですと言われたのです。

 私は何となく、子どもたちがよく楽しむようなテレビ番組のテーマソングだと、体を活発に動かしたりして喜ぶ姿が見えていたので、そればっかりをいつも念頭に置いておりましたが、ある種のショックを受けたのは「クラシック音楽もわかるんですよ、この子たちは」と現場の先生が 言うのです。どういうことですかと聞くと、例えばモーツアルトをかけると、静かになって、本当に聞いているような表情をする。だから時々これを使っているのですと言われる。

 だからクラシック音楽だけじゃなくて、コマーシャルソングでも音楽的に素晴らしいものはいっぱいありますが、クラシックでずっと聞き継がれてきた作品の中には、重症の子どもたちの何かを惹きつける力があるんだというふうに思うんですね。

 そうすると、単に楽しくというだけじゃなくて、本物を伝えるという取り組みをしていく、この子たちも発達への取り組みを開始していくというか、さらに発展していくというようなことを確かめることができたりもしました。それは教材論ともつながる話なのですが、やっぱりどの子もいつも取り組んでいる。周りの自然とか、文化とか、あるいは人に向かって取り組んでいる。その子を軸に、その子が何をしているのか、何を望んでいるのかっていうふうに考えて見ていくと、取り組んでいる姿が見えてくるということがあるように思います。

 この点、1番目にお話しした、障害がある子どもや大人も、障害のない子どもや大人と共通普遍の存在である、人間であるというところの共通点が、障害がいかに重くてもやっぱり貫かれているというか、そういう実感を私は持っております。障害のある子と接しますと、どうしても障害が目に飛び込んできます。そうでしょう。それでこの障害が重かったり、あるいは普通の子だとあんまりしないような行動を、その子がしたりすると「ああ、大変ね」となります。「こういう子を抱えて、お母さん大変ですね」という話につながっていったりする。

 でも障害はさっきのヴィゴツキーの言葉ではないけれども、その子の中のある部分であって、人間としては健常児と同じように、あるいは健常者と同じように、周りの文化や自然やその他のものといろいろと日々取り組んで、そこから何かを得て力を蓄えていく存在なのだということを常々考えながら、子どもを見ていくということが大切なのではないかというふうに思いました。

 私が尊敬してきた教師で、江口季好先生という方がおられます。ご存じの方もおられるかもしれませんが、「日本作文の会」の中心メンバーの一人でもあった。ごく最近また文学の中の障害者についてまとめた本を出版されました。この方が東京都大田区の池上小学校という、池上本門寺という大きなお寺がありますが、その隣りにある小学校の障害児の学級の先生だったのです。普通学級でも教えておられましたが、最後は長い間、特別の学級の先生もされました。

 あるとき、私に公開研究会をやるので、助言者として来てもらいたいと、こう言われたので先生の授業の助言などというのはとてもできない、見学なら伺わせていただくけれども、助言はちょっと勘弁してもらいたいと言ったら、「まあまあ来てくれ」とこういうようなことで、結局私も言われると断れないたちですから、力も省みず、行ったのです。

 素晴らしい授業でありました。知的障害の子ども、あるいは自閉症の子どもなどかがいる学級で、詩を書かせる授業です。この先生は「あっ」という間投詞ですか、驚きや感動の表現を最初に書かせる。あるいは口で言わせる。そして「あっ、お花が咲いている」などと経験したことの中の感動したことを思い起こして、文にしていく。あるいは詩にしていくという指導をよくされたのです。ほかにもいろんな工夫をされておられますけれども。

 子どもたちが、私の知的障害についての常識からすると、どうしてそんなに書くのっていうぐらいに、長い文章や詩を書くのです。先生がうまく噛み合った対話をしながら、その子にまた発表させたりしながら、1時間の授業が終わりました。

 どうして子どもたちがあんなに長い文章が書ける、長い詩が書けるのですか?と聞いたら、「まあ、それはそれで工夫をしましてね」ってこういうふうに言って、実は私も勉強したんですと言われる。実は自分は草花とか樹木とかそういうものについて、そんなに知識があるわけじゃない。早稲田大学の国文科を出た先生で、文学の専門で、それは謙遜だとは思いましたが、でもいろんな木とか花とかっていうのをそんな詳しいわけじゃない。

 それで授業の準備過程で、理科が得意な先生にずっと付き添ってもらって、学校の近辺の草花とか樹木を見て回り、説明されたことを全部憶えた、その蓄えから相手の子どもの状態に応じて必要なことを取り出して語りかけ対話をするのだと言うのです。、学校の周りを勉強しておいた上で子どもたちと一緒に散歩をし、しかも何回か散歩をして、言葉かけをして、そして子どもたちの中にいわば、樹木とか花についての経験を、言語の支えを持って蓄えさせる取り組みを自分なりにしたのだということなのです。それが「あっ」っていう書き出しで始まる詩に表現できているのではないかと思う、このように言われたのです。例えば「あっ、お花が咲いているよ」というように、「お花」でいい子もいる。もうちょっと具体的に、個別の花の名前を言わせなきゃならない子どももいる。花を見ればいつも花っていうだけだと教育にならない。もうちょっと力がついてきている子どもには、「あ、何々が咲いているよ」って。

 私は、これは非常に勉強になったので、その後ほかのところでも、例としてよく挙げさせてもらったりするのですが、自然に接する、自然が教材になるとはどういうことなのか。自然は自然そのままで教材になるかというとそうではない。やっぱり教育的に吟味して、かみ砕いて、その子、その子に合った言葉かけもしながら、そしてそのものに、花なら花に注目をさせて、さらに言葉をかけて、それで初めて自然は教材にできるということなのですね。

 本物の自然に触れさせるというときに、当然教育的に吟味された自然に、子どもたちを向かわせて、そして蓄えさせるという取り組みをしていくと、子どもたちはいろんなものを感動を持って受け止めて、それが詩にもなっていくというようなことでありました。

 自然に触れることは大事なことですけれども、しかし当然教材として吟味してつくり変えて、子どもの実態に合わせてっていうか、子どもたちの興味、関心、力に合わせてこれを与えていく。あとで申しますが、対話を大事にする。こういう取り組みの中で、実は自然に取り組むとか、文化に取り組むとかいうようなことができていくわけですね。

 子どもたちは誰でも日々発達に向かって取り組んでいます。しかし発達というのはただ、時間が経てば達成されていくというものではなくて、大人たちの働きかけの下で、そして教育で言えば教材を吟味して、提供して、それを武器にして、いわば子どもたちと触れ合って、そして子どもの中に何が定着していくのかを考えていくという、そういう取り組みを通して、発達は達成されていくわけなので、そういう意味で非常に大雑把に言えば、発達のための条件づくりが極めて大事なわけであります。江口先生の取り組みはそういうもので、機会があったらまたたくさんの著作がおありですから、読んでいただくといいのではないかと思います。

 少々余談めきますが、その授業では、私は久しぶりに伊藤暁子ちゃんというダウン症の子どもと再会しました。先生のところにいたのですかという話だったんですが、このダウン症の子は1970年ごろですかね。ダウン症は短命であるというのがいわば定説的に、お医者さんたちの間で広まっていまして、ご両親は保育園に入園をさせたかったのですが、命の保証ができない、この子を保育所で預かる条件はないということで、措置されなかった子です。

 ところがお父さんお母さんは共働きで、どうしても預けないと働き続けることができない。母親の働く権利と、子どもの発達する権利を統一する、これが保育ではないかという観点から、何とか受け入れてほしいというので、いわゆる行政不服審査請求というのを親たちがやって、私も意見書を頼まれて書きましたが、そのダウン症の伊藤暁子ちゃんが江口先生のクラスにいまして、堂々と詩を書いて、指名されて立ち上がって、機械的といえば機械的ですけど、30センチぐらい目から離して、手をこうまっすぐ伸ばして読み上げたのです。

 聞いていると最後に弟の名前が出てきます。「○○のバカ」とかいうのが、最後に余計なものが1行くっついちゃっていましたが、これはご愛嬌。伊藤暁子ちゃんはそのときは6年生だったと思いますが、非常に堂々たる姿を見せていて、これも教育の成果かなというふうに思ったりしました。

 もう一つ余談。授業の後、先生はどうしてその1時間の授業を、あんなに鮮やかに展開できるのか、それからまた子どもたちの、これはそのときの授業ではありませんが、反応を克明に実践記録に書けるのはどうしてなのですか?と聞いたら、「まあ、自覚してやっていますから」とこう言われました。自覚して授業を運んでいる。子どもたち一人一人の反応を見ながら、ここで何を言うべきか、ということも、先生としては自覚してやっておられるらしい。だからあとで大体全部思い出せるのだと言われました。何かの参考になればと思います。


前へ【1:(3)発達する権利の主体】  目次  次へ【2:(2)障害はその取り組みを制限する】