二〇周年記念講演会【3:(1)障害児・者に尋ねるということ、対話するということ】

3.取り組みは相手とのコミュニケーションを基盤にして行われる
(1)障害児・者に尋ねるということ、対話するということ

 

 私は、教育とか社会的な様々な活動を貫いているのは、人間と人間のコミュニケーションだと思っております。私はあまり労働の問題には詳しくないのですが、教育の問題でいえば、教育とはコミュニケーションだと言い切ってもいいぐらいに、人との関わり、人とのわかり合い、通じ合いというのが大事だというふうに思います。

 私は特に職員の方々に希望したいのは、一人一人に、これは子どもであれ、大人であれ、私たちが尋ねるという姿勢に立つことが根本なのではないか、と思うんです。どうしたの?とか、何がしたいの?とか、今気持ちいいの?とか、どこか気持ち悪いところがあるの?とかいうふうに尋ねる。

 私は障害児・者に尋ねるということが大事だと考えてきました。この「尋ねる」という言葉はあんまり学問的な表現ではないと思いますが、こういう言葉を使ったらいいかなと思ったのは、お母さんが子どもに接する、特に赤ちゃんに接するときの姿を見ていて、ああ、お母さんは赤ちゃんに尋ねているのだなというふうに思ったのですね。

 例えば泣くと「どうしたの?」と聞く。「おなかすいたの?」でもさっきミルク飲んだばっかりだなあとか、おむつが濡れて気持ち悪いのかな、でもおむつも替えたばっかりだしなあと、こういうふうな言葉をかけながら、子どもに尋ねている。赤ちゃんから、これこれこうだという答えが返ってくるのを期待しているわけではないけれども、姿勢を低くして、正面から向かい合って、そして大抵の場合は子どもの目を見ながら「どうしたの?」と尋ねる。

 お母さんは、泣くという行為の奥にあるものを探り当てる努力をしている。つまり表現されたものというか、表に出てきたものの奥にあるものを推察する。堅苦しい言葉で言うと、子どもの内面の世界を推察する。泣いたことに対して、ただ反応して、カッカするののではなく尋ねる。

 そのときの母親の姿勢は低い姿勢になっているし、体はやわらかいし、表情はやわらかいし、声の音色もいい。つまり尋ねるという行為をしているときの母親の姿は、実は私たちが、人間対人間の関わりの中で、取るべき基本的なスタンスに通じるのではないか。通じるようにすべきではないか。とりわけ相手がはっきりと言葉で表現できない人たちであるとか、あるいはまわりまわった表現でしか、自分の気持ちを表現できない人たちであるとか、あるいは言葉そのものがまだ獲得できていない人たちであるとか、こういう人たちと向き合って、私たちが取るべき態度は、尋ねるということなのではないか。

 もうちょっと具体的に展開して言うと、私たちは気づきというのが非常に大事だと思うんです。本当に正面から向き合って、その子を見たときに、あるいはその人を見たときに、何か気づくことがある。これは何かな、何の表現かな、ということですね。直感です。教育やあるいは取り組みの労働の中での、障害のある人々の表情とか、あるいはどこかへツーッと走っていっちゃうとかね、あるいは人にちょっかいを出すとか、行動的な、いろんな表現がありますね。

 これに気づく直感力というか、これは非常に大事だと思うのです。これはと思うものをつかみ取る直感力が、私たちに求められる。そういう意味では、私たちは人を見る目をしっかり持っていかなければならない。でも直感であるものを捉えたときに、それが何の表現であるかを、イマジネーション、想像力を働かせるということが同時に大事なのではないか。何かに目を向けて、そしてこれは何だろうというふうに、何の表現だろうというふうに想像力を働かせる。

 私は直感とイマジネーションが、コミュニケーションの根底になければならないというふうに書いたこともあるし、よくしゃべったりもします。実は実践の中では、これは容易なことではありません。本当に容易じゃない。

 職員の方々も疲れておられると思うので、何かいろいろ問題行動という言葉がありますが、今はあまり使われなくなりましたので、幸いだと思っておりますが、私も昔からカギ括弧をつけて、「問題行動」という言い方をしています。いわゆる問題行動が頻発したり、何をやってみても、こっちが意図したとおり、子どもが動いてくれない。あるいは障害者がやってくれない。こういうふうなときに、イライラしたりしますね。しかも手が足りないというようなことがあると、ますますそうで、何回言えばわかるのよって、こういうふうな言い方になっちゃったりします。

 あるいはさっき××したばっかりじゃないのっていうような、そういうときって尋ねるっていうことはできない。むしろ日々の取り組みは尋ねる条件はあまりないと、私は思います。本当に追い立てられて仕事をしているわけで、何か利用者が帰ると、嵐が去ったような感じになるわけでしょう、本当にね。この静けさは何だってこう思ったりするぐらいに、朝から夕方まで没頭して仕事をする、追い立てられて仕事をするという感じですから、なかなか尋ねるという姿勢に立つことはできませんけれども、これも時々反省する中で、尋ねることができていただろうかと考える。

 つまりこの人々の特に行動に現われた、その奥にある内面を推察するっていう、想像力を働かせるということができていただろうか。どうも行動に反応してしまって、イライラ、イライラしていたということはないのか。反省する中で、やっていただければ私はいいと思います。反省も毎日はしないほうがいい。毎日だと職員がノイローゼになりかねないから。また福祉の仕事をされる方は真面目すぎて、バーンアウトしかねない。労働の条件の大変さと合わせて、真面目な方が多いものだから、本当に思いどおりいかないと、ストレスがたまってきて、でもニコニコしながら接するのですからね。どこかで燃えつきちゃうというようなことが起こりかねないので、保護者の方は怒るかもしれませんが、適度に付き合いながら、しかし反省するときは徹底して反省して、この人々に本当に学びきれているのだろうか、何か学び足りないところがあるのではないか。日々の忙しさの中で我々の想像力が枯れてしまっているということはないのか。このように見直していくことができればいいのだというふうに、私は思います。

 そのときに時々、今日冒頭で申しましたような権利の主体である、何かいろいろできないからと言って、人間としての尊厳が否定されるようなことがあってはならないと。その人なりに精一杯やって、いろんなことを取り組んでいるのですから、あるいは思いどおりにならなくて、本人がイライラしていたりするのですから、やっぱり人間としての尊厳はしっかり尊重する。人権の主体であるというふうに見直しながら、同時に私たちが目の前のその人から学びきれているのか。私たちが柔軟に想像力を働かせる、考えを深める、その人についての理解を深めていくということができていたのだろうか、というふうに考えてみるということが大事なのではないか。

 反省をしていくと、職員が発達する。反省しない人は、ちょっと高いところから恐縮ですが、反省しない人は発達しない。やっぱり反省があってこそ、その人たちにまた学ぶということができてきて、その人たちのことをわかるということが始まってきて、そして私たちの取り組みを改善していく課題が見えてくる。

 だから子どもに学び、青年たちに学び、あるいは働く高齢の方々に学んで、結局自分たちのあり方を考え直すということができていけば、5年10年経つうちには、相当な専門家になっていくのではないかと思うのです。1日1回反省したからどうだ、こうだということではなくて、もっと長い目で見た場合に、人を見る目というか、障害のある人々を見る目が深まっていて、取り組みも改善されていくのではないか。

 とりわけ、だから若い方々はいろいろ困難にもぶつかると思うのですが、ぜひ長いこと仕事を続けていただいて、ところどころで反省をしていく。ここに重ねて言うと、やっぱり一人で反省しないほうがいいと思います。取り組みをみんなで反省して、ほかの人の目も取り入れることによって、自分を見直すということができるし、あるいは自分の発言が意外と波紋を広げて、ほかの人たちの目が変わってくるということもあるかもしれないし、だから集団的に反省すればいいと思います。

 こういうことをぜひやっていただきたい。尋ねる姿勢があると、相手はわかるのであります。相手が障害のある子どもであれ大人であれ。この人は本当に自分のほうを向いてくれている、見てくれている。自分に思いをかけて、いろいろ取り組んでくれているっていうことが、そんな言葉で表現するわけではありませんが、感じ取られるわけであります。そこが面白いところです。言葉でやり取りすると、そういうことがわかるというより、むしろ、我々の側の体制というか、スタンスというか、態度というか、それは感情を含んだものですから、その人たちを信頼し、その人たちにかける思いが伝わる。

 言葉は感情に乗って相手に伝わるもので、恐らく言葉が最重要じゃないのではないでしょうか。感情の流れが互いに通じ合う中で、そこに言葉が乗って伝わっていくという関係なので、言葉主義は、個人的な感想で言うと、私はよくないと思います。やっぱり学ぶ姿勢に立つときに、私たちの感情情動が相手に送られていく。そこに言葉が乗っていく。相手は、言葉は完全には理解できなくても受け止める。本当にこっちを向いてくれている。

 昔、東京土建という建設労働者の組合の出した本の中に、パパ、こっち向いてだったかな、という表題の本がありました。こっちを向いてくれる。気にかけてくれる。一生懸命何かやってくれている。これは通じる。

 赤ちゃんとお母さんの関係、あるいは赤ちゃんとお父さんの関係、先生と子どもの関係、指導員と障害者の関係。こういうものはやっぱり正面から向き合って、そして「どうしたの?」って尋ねる。「何がしたいの?」「何か辛いことあるの?」ってこういう尋ねる姿勢があるときに、相手はこっちを向いてくれているという信頼と安心感が生まれてくるから、ある意味では全面的に、こちらに依存してくるという関係ができてくるのだと、私は思います。


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