二〇周年記念講演会【はじめに】

●はじめに――仙台に来て思い出すことなど

 こんにちは。今ご紹介いただきました茂木でございます。普通、講演会といいますと、紹介からすぐに始まってお話をするわけでありますが、本日は20周年ということで、最初からここにいさせていただき、大変懐かしく、いろんな思い出が浮かんできました。

 何年だったかよく憶えておりませんけれども、なのはな共同保育室の1976年の発足ですか、それより前だったか、後だったか、ちょっとはっきり記憶がないんですけれども、講演を頼まれて仙台に参りました。松野安子先生に今日お久しぶりにお会いしました。ご主人の松野先生は、私が大学院のころからいろいろご指導いただいた学者でありますが、安子先生にもいろいろお世話になったので、大変懐かしくうれしく思いました。

 またちょうど同じころだったんだろうと思いますが、仙台市で「障害児保育を進める会」というのをつくるということで、これは乳幼児健診や保育所における障害児保育をもっと進めたいということで、玉井真理子さんという東北大の大学院生でお母さんだった方に招かれまし、仙台市内でお話をしたことがございます。先ほど法人から感謝状が送られた筑前先生にも何度もお会いしました。こういう言い方は僭越かもしれませんが、実直で非常に誠実な方で、こういう人が社会福祉を支えているんだなというふうなことを思ったことを、今日はよく思い出しました。

 なのはな会がここまで発展するというのは、ちょっと失礼かもしれませんが、思っていなかった。当時は本当に、いつ潰れるかわからないと言うと申し訳ないけれども、そんな感じで運営されていて、先ほども理事長のご紹介がありましたが、職員の給与もどこまでちゃんと払えたかっていうような感じだったらしいですけれども、よくぞここまで発展してこられたということで、私も感無量であります。

 そういうようなところでお招きをいただいて、お話をするわけで、普段よりちょっと緊張しております。これからここに皆さんのお手元にある項目に沿ってお話をするようにしたいというふうに思います。依頼があったのは、若い職員の方も多いので、いわゆる障害のある人々の発達について、基礎的な話をということであるわけですが、それにふさわしい話になればいいと思いつつ、早速話に入ります。

 私は大学を出たのが1966年の3月であります。67年にこれは私的なことではありますが、全国障害者問題研究会が結成され、その前年から誘われて、準備会などに参加しておりました。そこで大学で学んできたことと、学んできたと言いましても私はほとんど授業をサボっておりましたから、試験になると先生の本を読んでごまかして、答えを書いて、何とか単位を取っていたような学生でありましたけれども。でもそういうことを通して学んでいた障害児、あるいはもっと細かく申しますと、私は知的障害の子どものことが専門でありましたが、学んでいたこととかなり違ったといいますか、発想を逆転させなければいけないような障害児の見方、あるいは発達の見方というものに触れまして、ある種の衝撃を覚えながら、必死でいろいろ勉強しました。

 具体的に申しますと、特に滋賀県大津市の近江学園という知的障害児の福祉施設でありますが、その園長であった糸賀一雄先生の著作やお話ですね。それからまたそこで研究部で活動し、その後京都大学の教授になられた田中昌人先生。そして近江学園の取り組みを基礎に、もっと重症の子どもたちにも療育を保障しなければならないということでつくられたびわこ学園の取り組み、あるいはその取り組みを基礎にした療育映画『夜明け前の子どもたち』、こういうものに触れることができまして、先ほど簡単に申しましたが、これまでの私の、障害のある子どもたちについての見方を、180度逆転させなきゃならないというふうな、ショッキングな体験をしたわけであります。

 そこではこのレジメの2番目のところがちょっと関係がありますが、特に2つばかり申しますと、1つは、これは糸賀先生の大変有名な言葉でありますが、「この子らに世の光を」というのではなくて「この子らを世の光に」というふうにおっしゃられたり、また書かれたりしたわけであります。この言葉に大変目が覚めるような思いで、接しました。慈善慈恵の精神で障害のある子どもたちを見るのではなくて、この子たちこそ、むしろ社会の鑑であるというか、この子たちによって社会のほうがむしろいろんな問題を照らし出されているのだ、改革していかなければならない課題が見えてくるのだ、というふうな思想であったと思います。そういう糸賀先生の考え方、思想、こういうものとまた共感しながら、いろいろ取り組んでおられた田村一二先生とか、池田太郎先生とか、多くの方々の著作にも接しました。そういう中では、例えば障害のある子どもが小川の淵にしゃがみこんで、そして川の流れをじーっと、ずーっと見ている。その見ている姿に共感しながら、この子の内面世界を想像していくというような話が、当時の大津の障害児福祉の先駆者たちの著作の中に出てきます。実際、お話も伺ったことがあります。

 やはり何か上から障害のある子どもたちを見て、ああだ、こうだということではなく、また私がやっておりましたように、いろんな実験を組み立てて、それに対する反応を分析して知的障害児の特徴を明らかにするというような、これはこれで重要な取り組みではあるのですが、もっと当事者に寄り添って、当事者とともに感じ、ともに考えるというような福祉の考え方というものを、そこから学び取ったわけであります。

 もう1つはそれとつながっていることですが、いわゆる重症心身障害児、重度重複の、あるいは重症の子どもたちの取り組みを通して、特にびわこ学園の職員たちが打ち出してきた障害児についての見方、考え方、あるいは取り組み方ですね。やっぱり寝たっきりという言い方がよくあるけれども、この子たちの立場に立ってみれば、寝かされっきりということではないのかという見方にショックを受けました。最初にこの言い方に接したときは気がつかず、あとで気がついたことではありますが、重要なのはこの子たちの立場に立ってみればという言葉。ここに実は重要な発想の転換というか、視点の移動があったわけです。寝たきりというと、外側から、あるいは上からその子たちを眺めまわして、寝たきりの重症児だ、生きていて価値があるのかと、下手をすると、こういうふうな話につながっていくような見方になりますよね。けれども、この子たちの立場に立ってみれば、寝かされっきりということではないのかというふうに、視点をその子たちの側に移してその子たちを見るという重症児の見方、取り組み方がその映画の中でも出てくるわけでありまして、先ほどの糸賀先生たちの話と、これは一緒にやっておられた仲間ですから、当然相通じているわけですが、視点の移動ということについて、大変示唆を得たということがあります。

 この2つは私のその後の勉強の基盤になるというか、いつもそこに立ち返って考えるというようなことをしてきたのでして、それに幸いにしてというか、若いころに接することができたことは大変よかったというふうに思っております。これからお話しすることはそれに尽きるわけで、もうこの壇から下りてもいいのですが、そういうわけにもいきませんから、少し具体的にお話をしたいと思います。


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